歎異抄の名場面 第九条より
歎異抄は門徒たちの間で広がった異説や間違った解釈を正すために唯円が書いたとされる親鸞語録ですが、この九条は他の内容と趣が異なり唯円から親鸞聖人へ問いかける文章になっています。
唯円は常々疑問に思っていたことがありました。
理屈ではわかっているのですが、どうも心が伴わないのです。それが大無量寿経などで示される極楽浄土に関する記述です
阿弥陀様より必ず救うという願いを聞きそれを信じたならば
天に踊り地にはねるほどの喜びをもって
たとえ一言でもお念仏させていただければ
必ず仏にならせていただける (大無量寿経より)
苦難に満ちた娑婆世界とは異なり浄土はすばらしい世界のはずなのに、ちっとも喜んで行きたいという気持ちにならないのです。
極楽浄土は苦のない悟りの世界とはいいますが、想像することが出来ませんもんね。想像できなければ行きたいと思えないのも当然だと思います。 極楽浄土とはどんなとこ? 浄土真宗や浄土宗など浄土系宗派に死後の行き先とされる極楽浄土。いったいどのようなところでしょうか? 世間一般ではなんの苦労もなく飲んで食べて楽して暮らせる世界だと思われがちで ... 続きを見る
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そこで唯円は親鸞聖人に疑問をぶつけます
「お念仏をしてても躍り上がるような心は湧いてきませんし、浄土へ早く参りたいという気持ちが湧いてこないんですが…」
うわあ言ってしまった…
これは師匠の立場からすれば
それはお前の信心が足りないからじゃ!破門じゃ!
と言われても不思議ではないケースです。もちろんパワハラなんて概念もない鎌倉時代の話です。師匠と弟子の上下関係というものは今以上に厳しいものであったでしょう。
しかし親鸞聖人は
親鸞「おお、私もなぜだろうと思っていたがおまえもであったか!唯円!」
唯円「ええ!?」
親鸞は唯円の疑問に共感しこう続けます。
天に踊り地に踊るほど喜ぶべきことを喜べないのは煩悩の仕業である。我々は苦悩に満ちているこの世が捨てがたく、苦悩のない浄土に惹かれないような浅ましい存在なのだ。
阿弥陀様の救済の願いは、このような煩悩にまみれた私たちのためのものなのだから、いよいよ往生は間違いないと思えてならないのだよ。
躍り上がるような心が湧き、早く浄土に往生したいと思うようになれば逆に煩悩がないのだろうかと、疑わしく思うことだろう。
親鸞聖人は自分には弟子はおらず、皆お念仏の教えを頂く同朋だといっていますが、唯円にとっては師匠である親鸞聖人が奢り高ぶることもなく、同じ目線に立って疑問を解きほぐしていこうとする謙虚な人柄が浮かび上がってくるシーンです。
鎌倉時代の親鸞聖人や唯円が進んで浄土へ行こう!という気持ちにならなかったのです。現代の我々からしたら…
以上歎異抄の名場面でした。
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